今回の記事では、映画『天気の子』についての全体的な感想と、劇中で疑問に感じた点についての考察を述べたいと思います。
映像美と音楽の調和によって独自の世界観が生み出されている
街並みのリアルな再現と音楽との融合
本作では、新宿界隈をメイン舞台に物語が展開されています。他にも、代々木や池袋、六本木など東京都心部を中心にリアルな街並みが劇中で再現されていました。
前作「君の名は」や前々作「言の葉の庭」でも、新宿の街並みが克明に描かれており、新宿駅を日常的に利用している身としては、見知った街並みがそのままの姿で登場し、少し感動しました。
本作の劇伴は前作の「君の名は」と同様にRADWIMPSが担当していますが、映像美と音楽が完全にシンクロし、独自の世界観を作り上げています。
結末の印象は受け手次第
ラストの結末は、どの登場人物の目線に合わせるかによって、受け手の印象は異なると思います。
10代であれば、主人公の帆高少年が取った利己的な行動について共感できるだろうし、大人目線で見れば自己犠牲を通じた利他的な行動を結末に据えるべきだと思うかもしれません。僕は10代の少年が選択する行動としてはごく自然であったように思います。
今回、様々な人のレビューを読んだ上で鑑賞しました。それを踏まえた上で劇中で疑問に感じた点について考察しようと思います。
須賀圭介の亡くなった妻=晴れ女説について
須賀の「過去」
須賀圭介の妻=晴れ女説はネット上で盛んに議論されていました。
陽菜が人柱になって天に昇るシーンでは、圭介が自分の幼い娘からそれを夢で見たという話を聞いた際にハッと何かを悟る表情をしたり、その後、代々木の廃墟ビルに帆高少年より先に到着していたりなど、過去に同様の体験をしなければ辻褄が合わないような展開がありました。
また、何度も圭介の指輪(2つしていたので、おそらく片方は奥さんの所有物)がフォーカスされるシーンがあり、何かを暗示しているようにも見えました。
あくまで推測ですが、オカルト雑誌のライターをしているという点も、超常現象的な出来事の取材を通して、奥さんの死の謎を解明したいという潜在的な欲求があったようにも思えます。
「須賀」の名前の由来
ちなみに、須賀圭介の名前は新海監督曰く「スガシカオ」から借用したらしいのですが、雨女には龍神系の、晴れ女には稲荷系の自然霊が憑き、「君の名は」で登場した須賀神社は稲荷系だそうです。
ただの連想ゲームですが、なかなか面白い発見です。
須賀圭介の涙の理由は?
須賀の不可解な行動
陽菜が人柱になった後、それまで雨続きだった東京の街並みが一気に晴れ上がります。
その後、帆高を追う年配の刑事が圭介の経営する会社を訪問した際に、圭介はその刑事に一筋の涙を流していることを指摘されます。
実はその直前に、不意に圭介が窓を開け放ち、室内に大量の水が流れ込んでくるシーンがあるのですが、その行動については正直良く分かりません。
須賀の無意識的な涙
ただ、窓を開け放つという行為は、晴れ上がりは人柱が起こした現象かもしれないという半信半疑な気持ちからで、その後、刑事から帆高が人柱になった陽菜を探しているという事情を聞き、そこで半信半疑から確信に近い感情に至ったとも考えられます。
そして、過去の自分の体験と穂高の言動がリンクし、その結果、奥さんを失った悲しみが同時に、かつ無意識的に思い出されて落涙に繋がったのかもしれません。
そう考えると、代々木の廃墟ビルに帆高少年よりも先に到着していたという展開にも論理的な繋がりが見えてきます。
圭介は穂高が選択しなかった未来の大人の姿?
須賀と穂高との共通点
圭介が娘を芝公園で遊ばせるシーンで、姪の夏美が圭介と帆高は似ているというセリフを言います。
二人が性格的な面で似ていると言及するシーンはこの場面だけだったと思いますが、個人的にはこのセリフが物語全体の構図を示唆しているように感じました。
この物語は、「社会全体と対立する少年」の話です。
家出少年が東京に出てきて、社会の冷たさに直面しながらも一人の少女に出会い、最終的にその少女を救う為に強い意志を貫徹するという内容です。
須賀は中間的な存在?
圭介は帆高を受け入れつつも、時おり常識的な態度で突き放しますが、最後は帆高に味方します。
圭介は社会の常識の中で生きつつも、穂高の心情も理解できる中間的な存在なのかもしれません。
穂高は陽菜を彼岸から救い出し、現実世界に引き戻します。反対に、圭介の奥さんは亡くなったままで、仮に交通事故ではなく人柱になって居なくなったのだとしたら、圭介は救えなかったということになります。
これは推測の域を出ませんが、圭介は奥さんが人柱で亡くなったことを心のどこかで感じながら、救えなかったことに苦悩しているとしたら、例の廃墟ビルで穂高を味方したシーンにも説得力が増します。
仮にそう解釈すると、本作は好きな少女を救う少年と、過去に同様の体験をしながらも救えなかった大人の姿が同時に描かれた話のようにも思えます。
物語をそういう視点で観ると、単なる暴走少年の話ではなくなります。
指輪やチョーカーは「循環」の象徴?
前作「君の名は」
前作「君の名は」では、「組み紐」を通して二人の男女が時空を超えて結びつくという内容でした。
時間には直線的な時間と円環的な時間があります。その象徴が「組み紐」であり、過去から現在そして未来へと直線的に流れる時間とは別に、円を描くように過去と現在をタイムリープする時間の流れが前作では交錯していました。
「君の名は」とのテーマの違い
今回の作品では、指輪やチョーカーが何度もクローズアップされています。地球全体の水の総量は変わらなくとも、雨が降ったり乾いたりする光景は天気の循環を表します。
最後、陽菜のチョーカーが切れ、東京はその後3年に渡り雨が降り続け、東京の街の大部分は水没していきます。
指輪やチョーカーが「循環」を象徴するものなら、チョーカーが切れたことは循環の断絶を意味します。それが、3年にも渡る降雨に繋がったのでしょう。
ちなみに、冒頭のシーンから東京の街には雨が降り続いていましたが、街は水没していません。
確か、圭介の奥さんが亡くなったのは圭介と帆高が出会う3年前でした。ということは、仮に奥さんが晴れ女だったとしたら、雨の日に症状が酷くなる喘息持ちの小さな娘の為に人柱となった可能性も考えられます。
晴れ間にできるのは一時的にせよ、圭介と帆高が出会った時点では東京の街が水没していない理由も理解できます。
最後に
前作「君の名は」で描かれていた東京が「光」だとしたら、今作は「闇」の部分です。新宿東口界隈を中心に、都会の暗部が生々しく描かれています。
また、視点を誰に設定するかで見えてくる景色が異なります。そういった意味でも、評価の分かれる映画かもしれません。
『天気の子』は小説も併せて読むと、映画版で語られなかった細かい裏設定も理解できて、ストーリーがより立体的に浮かび上がると思います。
小説版『天気の子』
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